プロフィール

ご挨拶

当ブログにお越し頂き、ありがとうございます。『めがねぇね』と申します。

このブログは、農業のこと、4人の子持ち主婦の日常や子育て、手相見としての活動や手相についてのアレコレなどを綴っていく予定にしています。

50代となっても、やりたいことがたくさんあって、脳みその収集がつかないので🤣、ブログに書く=言語化していくことで、1つ1つ夢を叶えていきたいと思っています。

また、50代からでも、まだまだ色々なことができることを、このブログを通じて知って頂き、変わるキッカケ・行動するキッカケにして頂けたら嬉しいです。

愛知県豊川市のカフェで手相鑑定も行っています。興味を持たれた方は、お気軽にご予約ください。よろしくお願いします。

めがねぇねの由来

いとこから「ねぇね」と呼ばれており、私のトレードマークはメガネだったことから、娘の「めがねとねぇねを組み合わせたらいいじゃん!」の一言で、「めがねぇね」が生まれました😁

資格取得・活動内容

2006年~プリザーブドフラワー
自宅で教室を開講、地域生涯学習講師、小中PTA講座、子ども会講座
イベント出店
2011年アロマコーディネーター、カラーセラピスト
2012年モールアートマスター
1年間アカデミー講師をする

農業と主婦と手相鑑定に集中したいと思い、上記内容の教室、講座、講師はお休みしています。

めがねぇねの年表

1972年

愛知県豊川市に生まれる。

両親が共働きだったので0歳から保育園へ。おてんばで目立ちたがりの女の子でした。ビールケースを台にして、良く歌っていたそうです。

小学生時代

負けず嫌いで何でも一番になりたい!と、いつもみんなの中心にいて仕切っていたような思い出があります。

小学1年生から習字を、小学3年生からはそろばんも習いはじめ、休まず通う真面目な子でした。書もそろばんも表彰されることが多く、いつか書道の先生になりたいと夢見ていました。今でも字を書くことが好きで、年賀状の宛名は必ず手書きのこだわりがあります。

運動神経も良く、足も速かったので(逃げ足も🤣)いつも選手に選ばれていました。陸上、水泳、ミニバスケ…真っ黒に焼けた健康少女そのものでした。両親からの期待が大きく、何をするにも両親に褒められたい思いが強かったように思います。

鉄棒のように逆上がりできると思い、庭にあった物干し竿にぶら下がり、真っ二つに折れ(当たり前🤣)、母親にこっぴどく叱られたことは、今も鮮明に覚えています😆

高学年にもなると、親や先生に対して反抗心が芽生え、学校でトイレ掃除中、ホースで壁や天井まで水をまき散らしたこともあり、廊下で正座して反省させられたこともありました😅

中学時代

陸上部の長距離選手になり、三年間、ほぼ毎日10㎞走っていました。どんなメニューをやったかを毎日記録し、そのノートは今だ残っています。

竹刀を持って指導するような先生がいた時代で、ヘルメット着用が義務付けられていたとこを、たまたまノーヘルでいたところを見つかり、1日ヘルメット着用で授業を受けさせられたり、ヘルメットの上から殴られたこともありました😅

今では考えられないことですが、そんな時代だったのです。

高校時代

部活が認められ、地元高校の商業科へ推薦入学したものの、部員が少なかったこともあり、あまり活動せず、部室で漫画読んだりしていました。高校時代は、あまり目立たないような感じで過ごしていたように思います。

ある時、献血車がきて、献血を行った時に、ずっとA型だと思っていた自分の血液型がB型だったことが判明!現金なもので、その日からB型の行動をして、友達に大笑いされた思い出があります🤣お調子者で明るくおもしろいJKでした。

高校時代も真面目で、親にも反抗しない(できない)子供時代でした。小中高と皆勤賞を頂きました。何があっても学校には行く!を貫いた学生時代。これだけは自慢できます✨

三年間一緒のクラスで過ごした友人たちとは、今でも仲良く付き合ってます。

19~24歳

地元の大手企業(工場)に総務事務員として就職。複数の課の庶務係り。コンピューター製造の会社だったので、PCの簡単なプログラムから資料作りなど 、沢山の事を学ぶことができました。

職場に聴覚障害者の方がおり、手話が出来ず、伝えることができなくて悲しかったことから、1年間手話を学びました。

手話でコミュニケーションが取れるようになり、手話と私の唇の動きや表情を読んでくれて会話ができるようになったことで、向こうから肩をたたいて呼び止め、話してくれるようにもなり、とても嬉しかったです。

バブル時代と言われる華やかな時代で、毎週華金は大勢で食事→カラオケ→スナック。東京へ出張することがあり夜は接待客として初めて高級クラブへ連れてってもらい、お店のママさんからもらったジュエリーボックスは今でも大切に使っています。

八方美人で楽しく過ごせていた独身時代(いまでも変わらないが)。ゴルフも経験、上達せず楽しくなくなって1年で終わり、その後はスキーにハマり、毎週末スキー三昧でした。

直の先輩が工場で初めて「育休」を取り、社内はざわつきました。「子供ができたら退職」が暗黙のルールとなっている会社だったので、先輩がこの制度を使ってくれたおかげで、私も取りやすく長く働けました。

結婚するまで、母親のいう事は絶対で逆らえず、門限も変わらず17時(日が暮れる前に帰ってこいでした)でしたが、会社のお付き合いだけは許してくれていたように思います。

1995年(23歳)|先天的な病気が見つかり手術

入社時の健診で先天的な心臓の病気が見つかり、「将来、子供を考えているなら手術した方が良い」と言われ、手術をしました。

1997年(25歳)|結婚

5年の付き合いを経て結婚。お相手は三男。

1999年(27歳)|長女誕生

初産で19時間かかりました。痛みが強くなってきてからは側にいたくれた母と妹がずっと腰をさすってくれました。

夫は富山に出張中で、分娩台から電話で「産まれたよ」報告!両家初孫の長女。一番喜んだのは父親で、毎日お風呂に入れてくれました。

2000年(28歳)|職場復帰

仕事復帰。現場ではなく、設計の庶務兼部長秘書に。職場内の関係性をすべて把握、上手に人を動かすお局様に。

長女は未満児保育へ。フルタイムで働いていたので、何かあれば母がいつも助けてくれました。

2003年(31歳)|次女誕生

長女の出産時のように、すぐに生まれないだろうと朝からお出かけしていたら…気づくと陣痛が10分間隔を切る状態に。

急いで病院へ駆け込み、すぐに分娩台へ。すでに頭が少し出始めていたので、あっという間に生まれました。

長女と同じく育児休職を取らせて頂き、すぐに三女も出来たので、連続で育休を。長くお休みできたので、保育園の行事や母の会にも関わることができました。

子育てと仕事の両立は大変だけど、この休暇を頂いたことで、自分の時間を持つこともできたし、親の介護をすることもできました。

2004年(32歳)|三女誕生

一人目から性別を聞かず産みました。女の子→女の子ときたので、次は男の子かな?と淡い期待をしていたけど、「元気な女の子ですよ!」と。うん。どうやら私の家系は、女が強いようで🤣

性別は関係なく、元気に生まれてきてくれてありがとう!と感謝でいっぱいに。

2006年(34歳)|長男誕生

長女、次女、三女は市民病院で出産。4人目の子は念願の個人病院で出産することにしたので、すぐに性別を聞きました(笑)

4人目なのに分娩は大変でした。男の子は肩があるから少し頑張ってね!と言われましたが、陣痛の痛みは(産むと忘れてしまうけど)どの子も変わらない。

分娩台へ上がった時は痛みがマックス!赤ちゃんも頑張ってるからお母さんも頑張って!いや、頑張れない、思わず「切って出してー」と言ってしまいました。(反省)

無事、元気な男の子を出産。私、よく頑張った!産後の豪華なごちそうで心が満たされたのでした。

職場復帰の為、手続きを進めていた時に長男の妊娠が分かり、また継続して育児休暇を取らせて頂きました。4人育休を取った人は、そうそういないらしく、会社や上司、同僚に感謝しかありません。

しかし、約5年の休暇中、社内は大きく変わり、人の移動に会社の合併で、今まで関わっていた人達の多くが転勤してしまい、復帰できるか不安でした。

長男が誕生する三ヶ月前、父が他界。息を引き取る瞬間まで、「お父さんありがとう」と思いながら、ずっと手を撫でながら側にいることができました。

長男妊娠中に、「プリザーブドフラワー」と出会い、教室に通い、出産後ディプロマを取得しました。

2007年(35歳)|育休中に母他界

毎日子どもを連れて実家へ行っていた私。妹と三人でいつもと変わらない親子の会話が最後でした。

目を開けて欲しい、話したい事まだいっぱいあるのにと、毎日病室へ通い、毎日の報告をする日々を重ねていましたが、別れは突然訪れました。母の最期も私が看取りました。

父親が亡くなって一年も経たずのことでした。母の体調の変化に早く気づいていたら…と悔やむ気持ちもありますが、最期を看取れたことは良かったと思っています。

父と母の服や使っていた物など、一年以上かけて整理しましたが、その後、エンディングノートを学ぶ機会がありました。

両親が生きているうちに思いや考え、色々な情報を聞いておくと残された家族が困らないと強く思いました。もしもの時に子ども達が困らないように、エンディングノートを書き留めています。

2008年(36歳)|職場復帰

大幅に社内の組織も変わり、私の配属先が決まらない話は同期から聞いていました。入社時に配属された職場の元上司が、「山田さんなら受け入れるよ」と言ってくださり、現場の庶務に短時間勤務で復帰しました。

37~38歳|必死で子育て

頼れる両親がいない中、家事育児は大変でした。子どもは突然熱が出たりする、保育園からの呼び出しもある。夫がとても協力してくれたので、働くことができたと思います。

子ども全員がインフルエンザに罹ったときは、1週間目は私が看て、次の1週間は夫が仕事を休んで看ました。4人の子が時間差で次々に罹っていったのですが、私だけ罹りませんでした😆

39~43歳|現場作業員へ異動

この年、現場作業員へ異動となりました。電子回路など電気部品の配線を接合するはんだ作業や、ドライバーを持ち組立作業などする仕事です。この経験が退社後大いに役に立ち、工具好きになりました😊

ずっと事務職だったので、現場は無理と思い込んでいたけど、何事も経験ですね。職人のような仕事が好きなのかもしれないと気づいたのです。

2015年(43歳)|退職

工場閉鎖に伴い、神奈川へ転勤と告げられましたが、転勤することはできないので勤続24年で、この会社を退職することになりました。

2016年(44歳)|念願の専業主婦へ

念願の専業主婦となりました。お友達とモーニング、ランチの毎日。

1年ほど好きな事して遊んでいたけど、何か物足りない…と思い始め、家にじっとしていられず、飲食店でバイトすることに。夜勤に近い勤務で体を壊し、1ヶ月でやめてしまいました。働くなら、昼間にしようと思いました。

2017年(45歳)|米作りを引き継ぐ

義父他界。この年から、米作りを夫と受け継ぎました。愛知県のブランド米「あいちのかおり」を作ってます。

粒が標準的な米より大きく、食感がしっかりしているので、冷めてもおいしく食べられる自慢のお米です。

義母が一人暮らしとなり、私がキーパーソンになりました。ケアマネさんと相談しながら義母を支えていますが、デイサービスに行くまで説得に2年かかりました。

デイサービスに行くようになると、お友達も増え、会話も弾み、生き生きと過ごすようになり、義母の笑顔が見られるようになり喜んでいます。義母との関わりから、支援、介護認定、デイサービス、デイケアなど、多くのこと学ばせて頂きました。

2020~2021年(48~49歳)|農業塾に参加

1年間、新城市主催の農業塾で学びました。青パパイヤ栽培というプロジェクトにも参加。

家庭菜園レベルの私でしたが、土づくりから収穫まで、年間10品目ほどの野菜を育て販売まで経験することができ、経営のノウハウも学ぶことができましたが、共同で仕事をすることの難しさも、同時に学ぶことになりました。

2022年(50歳)|手相見デビュー

手相と出会い、手相の基礎と数秘術も学び、5月に手相見としてデビューしました。

2023年|手相見2年目

5月に、息子とJUIDA無人航空機操縦技能取得、安全運航管理者も取得しました。ドローンの世界も楽しんでいこうと思っています。

農業女子グループでは、こだわり野菜や果物を販売しつつ、商品開発もスタートの予定。様々な物事を経験し、自分の成長につながりました。

今までとは異なる視点や立場で見られるようになり、色々なアドバイスや助言ができる人、また頼られる存在になるために、私自身も好奇心を持って、色々なことにチャレンジしていきたいと思っています。

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